昨夜は震災以来、家で爆睡した。ガスは今も通っていないが、余震はかなり減った。今朝、震度2以下の地震があったくらいかな。今もドーンという地下からの音はするが、揺れはしない。朝から、南阿蘇に向かった。第2空港線を通り、空港に入る信号から数えて、3つ手前の信号交差点から右に曲がり、下り坂を下りてくると、西原村と益城町の境のところに着く。それから、グランドチャンピオンゴルフクラブ、阿蘇ミルク牧場へ向かう、グリーンロードというルートに乗り、南阿蘇方面に向かうと南阿蘇のアスペクタの横に出ることができる。渋滞することもなく、スムースに行けた。南阿蘇村は電源車が沢山入り、電気を維持している。ただ、雨等降るせいか、しばらく停電になったり不安定なところもある。母の家は2階の物入れのドアが開かなくなったくらいで建物の被害は少なくて良かった。久木野温泉界隈や免の石展望所(この石は落ちそうで落ちないことから受験生の願掛けで有名であったが、今回の震災で落下したという)などまで見て回った。昔からある古い住居がかなりやられている一方、別荘や新築のダメージは見られない。南阿蘇村の立野側が人的被害も大きく孤立している村として、マスコミ等報じられているためか支援物資はかなり多いという。私がいる間も、オスプレイが舞い降りたり、安倍首相が母の家のすぐ近くの避難所を訪問していたりしている。電気の完全な復旧は5月末と言われている。しかし、俵山トンネルや俵山の峠道、それに至る熊本側の崩壊した道がいつ元に戻るのだろうか。風呂に入らせてもらい、母にも会い、ホッとしたのだろう。急激な睡魔が来た。身体に力が入らない。2時間くらいであるが、爆睡した。しかし、このところ、夢は全て避難の夢。強烈なショックが脳に植え付けられたのだろう(しかし、これも前向きに捉える。この経験を今後に活かす)。母手作りの昼食を食べ、逆に元気をつけられ、お互い頑張ろうと別れた。母が南阿蘇に移り住んだ後、築き上げてきた近所付き合いがこの災害時に大きく活きていた。別れたすぐ後に、また停電になり、しばらくして復旧したという。この震災は阿蘇山にも大きな爪痕、時限爆弾を残している。南から見る阿蘇山の山腹に大きな横割れが数本、明確に見える。その下には、父の遺骨が眠っているお寺さんがある。先月、長年かけて内装を完成させた立派なお寺であるが、もう危機にあり、住職さん家族も避難してきている。大きな地震か大雨が降れば、かなり危険である。帰途、道を間違え、西原村の被害が大きい地区に入り込んだ。私のロードバイクコースであり、大変落ち着く、気に入っていた地区である。何とも言えない、重い気持ちになった。何度か道を間違えながら、第2空港線に戻った。渋滞気味ではあったが、渋滞が苦にならない。この人たちもこの震災に対してそれぞれの思いで運転しているのだろうと思うと。もっともっと静かな夜になってほしい。
熊薬出身で、県外で活躍中の薬剤師も熊本に駆けつけ、余震の中でも、医療人としての責務を果たしている。災害を恐れるのではなく、こういう時だからこそ、意識高く、被災した人々を助け、貢献する職であると。大学に寄り、差し入れも頂いたりしている。また、支援物資は何を送れば良いかという問い合わせも来ている。地震によるさらなる災害が無い段階での支援は何か?今、体育館に救急車が来た。86歳の方であった。家が壊れていない人で避難している理由は、夜の余震が恐いということである。家が危険で戻れない人は体育館に住むしか無い。現在、県内外の自治体が次々に宿舎の提供の情報を流している。避難所が閉鎖されれば、しばらくはそういう宿舎に移り住むことになるのであろうが、財産がなくなったり、あるいは家庭農園で野菜を育てながら、かつ年金で生活していた人であれば、移り住んだ後の生活が維持できるかどうかも心配である。だから、まだ物資の提供がある避難所の方が良いのではないだろうか。南阿蘇村の避難所にて支援している親友の薬剤師さんから、2歳未満の食物アレルギー(卵、牛乳)の子がいるため、食物アレルギー用の食材の提供の依頼があった。薬学部体育館の支援物資にそのような観点は確かになかった。
大学は、建物本体は大丈夫であるということがわかり、本当に安心した。ひび割れや表面のモルタルが剥がれ落ちたりしており、不安に思えたが、建築の専門家の意見には納得できた。講義室も使用可能と分かり、予定通り講義も開始される。教育はどうにかなる。ただ、開始初日はオリエンテーションをやるべきという話になった。授業、実習、夏の休暇がどうなるかもあるが、何よりも心のケアのためでもある。実習関係の備品、ガラス器具が大きく破損した実習もあり、実習の順番を変更する等、対応が必要なこともわかってきた。研究に関しては、共通機器や各研究室の機器も壊れていないように見えても、機能するかどうかのチェック次第ではかなりのダメージになりうる。医学系のキャンパスの関連の先生方と話し合いを持ち、お互い使える機器の情報を交換しようということになった。それでも無理である必須の機器については、現在、申し出がある他大学、他研究機関の機器の使用あるいは借用をお願いして,研究体制の可能な限り早期の復旧を図ろうということになった。
昨日、熊本大学として、熊本大学基金に「熊本地震に係る復興事業基金」を新規に設置し、熊大コミュニティーからの支援の窓口が示された。たとえば、薬学部に対する支援であれば、寄付目的に「薬学部復旧のため」あるいは「薬学部教育研究支援」と記載すると、上記の実習関係の備品購入費や被災が大きい薬学部学生に対する支援にあてたりできる。寄付目的が特になければ、五高記念館等、大学全体の被害状況に応じて活用される。現時点で、熊本大学の早期復旧支援として有用である。しかし、まだ、困っている市民、学生、職員の日常の最低限の確保がより重要であるのは言うまでもない。各地からのボランティアも増えてきている。当たり前の日常に復帰したい。いや、皆で力を合わせて、リセットから新たな熊本を築いていく。自然に逆らえないもの。昨日のことは今日にはない。そして明日はまた新たな一日。河の流れの水が一日たりとも同じでないように、人生もそうである。前進前進。このブログに地震関連の話題や情報提供は終わりにしたいと思う。
昨日から本日まで撮影した写真
五高記念館の3本の煙突が落下。
遠目には何事も無いような阿蘇
立野から阿蘇大橋近辺の崩壊現場が見える。
平和に見える。撮影中、ホトトギスの鳴き声が大きく、外輪山にこだましていた。
長陽村側の阿蘇の崩壊現場とその右側に沢山見える横に走る大きな亀裂が何本も(先日、妹が撮影)。
この下のお寺に父の墓がある。行くことはできないという。阿蘇山を変えずに、この危険を回避できないのだろうか。
右上にオスプレイが物資を運搬している。白水のグランドに着陸するという。
久木野温泉横を下りていくと白川に架かる小さい橋がある。通行禁止である。橋の手前が大きく陥没崩壊。
西原村の山中の地区。何とも言えない静寂。
第2空港線に戻る途中。。。ほとんどの家が。。それでも命があれば明日がある。