エーザイでの研究が絶好調の、26歳になったばかりの10月、恩師の宮田教授から連絡があった。来年4月から教員(当時は、助教ではなく助手という名称)として戻ってこないかと。エーザイでのあらゆる生活が充実していたので最初は断った。それでも、宮田先生から、トータル3回のお誘いを受けた。周りの信頼できる方々にも相談した。当時のエーザイが社員第一のNo1.の高待遇の環境だったこともあり、誰も辞める人がいない時代だった。出身の薬物学研究室は、伝統があり、多くの優秀な先輩達を輩出しているラボであった。そこの研究室のポストが空くのも数十年ぶり。その貴重な機会が私に来たのは大変名誉なことだった。故に、かなり悩んだ。最終的に決断した理由は以下の通り。① 博士号をまだ持っていなかったこと、②海外での研究生活を人生に一度は経験したかったこと(当時は、製薬会社から海外留学は稀、大学の先生は1度は必ず留学ができた)③企業の研究は、企業の方針に沿ったターゲット疾患の創薬研究になり、研究者の自由は制限されること(病院で治らない難病の研究がやりたかった。希少疾患の創薬研究を企業が行うことはなかった)④同期入社に他大学の助手を経験した人がいたこと(当時、大学教員から企業研究者の道はあるけど、その逆はほとんどなかった。教員が向いていないことがわかれば、また、どこかの企業に就職すれば良いと思った)。⑤運を運びたければ足を運べ。挑戦せずに人生を悔いるより、挑戦して人生を悔いる方がどれほど幸せか。
決断した後、辞める人間をエーザイの方々が色々と支えてくれた。特に、舘さんは真摯に動いてくれた。熊大に戻った後も甲斐が大切にされるようにと。舘さんは、当時、研究人材の採用担当として、日本中の国公立大学の薬学部などを周っていた。大学院修士2年の5月に、私がエーザイの面接試験を本社で受けた時の面接官でもあった。当時、羽田ー熊本の最終便が6時くらいであった。面接終了後、帰る便に間に合わないことがわかり、本社の正面玄関の外で、さあどうしようかと途方に暮れていた時、後ろから声をかけてきたのが舘さんだった。「おう、甲斐君、どうした?帰れない。それなら、俺の家に泊まれ。その前に銀座に飲みに行くぞ」と。その夜は、座るだけで数万円という店に、その後、電車に揺られて、埼玉県にある舘さんの自宅に。それ以来、30年以上の親友としての関係が続いた。私が教員として戻った後、舘さんは何度も熊本に、そして私の実家の椎葉にも訪れた。私の父と鶴富屋敷の中で酒を酌み交わしたりしていた。舘さんの通夜の時に、送る言葉をご家族に頼まれた。その時、舘さんがカラオケでよく歌っていた歌を下手なフルートで演奏をした。葬儀では、内藤社長が送る言葉を。舘さんにお世話になった人は日本各地にいた。画伯でもある舘さんの話はこちらに掲載。
24, 25歳:大学院修士課程修了後、エーザイに入社し、筑波研究所で薬理研究員として、朝8時前から夜11時過ぎまで合成グループの化合物の薬理評価に明け暮れ、充実した毎日だった。また、私は運動ができる数少ない若手社員として期待され、筑波研究所の軟式野球部、サッカー部、テニス部、バレー部に所属した。平日の仕事よりも土日の運動に体力を使い、お陰で、平日の仕事が楽に感じた。1番の思い出は、野球の地域リーグの決勝戦での、スタンドインの満塁ホームラン。私の入社最終面接を担当した研究部長(野球部の部長)が、入社後の新人研修の時に私に放った言葉「甲斐を採用したのは、大学時代に4番バッターだったと言っていたから」と。。。? ともかく、その期待に応えることはできた(笑)。研究所の同期入社の平均年齢が28歳を超えていた。多くが博士、そして、大学の助手、海外ポスドク経験者など多彩で能力溢れる同期達。一番、若く、力が無い私は、実験量だけは同期の誰にも負けないと必死だった。また、日本語や英語の語彙力不足を補うために、速読法を身につけ、様々な分野の本を多読し、平日の昼休み時間は、駐車場の車の中に一人籠り、FEN(米軍基地からの放送)を聴いて、英語力でも皆に追いつこうとしていた。強烈な刺激を与えてくれた同期に感謝。平日は、最後まで研究所に残って実験をしていたので、研究所に宿泊している部長や室長などに声をかけて頂き、社員食堂で飲む機会が多かった。新人ながら、会社の内情を知る、学びの時間を得ることができた。その時、室長だった山津さんとは、私がエーザイを退職後も長い長い密な人生の友になった。さらに、当時の研究開発本部長は、現在の内藤社長であり、今もなお、懇意にして頂き、昨年、主催したアフリカ開発会議サイドイベントイン熊本でも、ご多忙にも関わらず、私の講演依頼に対しても快諾頂いた。私の人生にとって、エーザイ時代は、濃密で、とても有意義で、成長した2年間であった。たった2年間でも中味は濃かった。
「長生きでなく、中味の濃さに人生の意義がある」
定年退職まで、残り3年。しかし、この3月末をもって早期退職を決意した。退職に際し、これまでの出会い、経験や想いを、このブログに、日々、綴り、お世話になった方々への感謝の意を表していきたい。私の教員生活36年間、多くの素晴らしい学生達の頑張りにより、多くの研究成果が生まれた。それを支え、励まして頂いた、多くの皆様に心より感謝。お陰様で、多くの教え子達が社会で大きな貢献をしている。何より、本研究室から、60名近くの博士を輩出できたことが誇りである。
早期退職の主な動機は、①36年間の教員生活を悔い無くやりきれたこと、②これまで学長特別補佐、学部長、副学長等として、大学への納得いく貢献ができたこと、③研究室も次世代へのバトンタッチができる時期に来たこと、そして、④自らを限界までさらに成長させるための新たなステージにチャレンジしたいと強く思えるようになってきたこと、である。
これからの新たな人生は、①研究の成果である、いくつかの医薬品候補薬を、苦しむ患者の下に確実に届けるために、リスクを恐れずにチャレンジしていく。②ライフワークとして、異次元の現代数学(圏論、コホモロジーなど)を駆使しながら、現代の科学では、見えない世界を数学で見える化しつつ、生命の本質に迫っていく。そして、③いくつかの公的な団体の役回り(理事長や理事)による社会貢献の責務も果たす。
強い好奇心とワクワク感でもって、新たな旅立ちをします。
そして。言わずもがなですが、「くまもとの父」として、教え子達の人生や幸せを、いつまでも応援し続けます。
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