2023年2 月16日 (木)
エーザイから大学教員へ その2エーザイから大学教員へ その2
エーザイでの研究が絶好調の、26歳になったばかりの10月、恩師の宮田教授から連絡があった。来年4月から教員(当時は、助教ではなく助手という名称)として戻ってこないかと。エーザイでのあらゆる生活が充実していたので最初は断った。それでも、宮田先生から、トータル3回のお誘いを受けた。周りの信頼できる方々にも相談した。当時のエーザイが社員第一のNo1.の高待遇の環境だったこともあり、誰も辞める人がいない時代だった。出身の薬物学研究室は、伝統があり、多くの優秀な先輩達を輩出しているラボであった。そこの研究室のポストが空くのも数十年ぶり。その貴重な機会が私に来たのは大変名誉なことだった。故に、かなり悩んだ。最終的に決断した理由は以下の通り。① 博士号をまだ持っていなかったこと、②海外での研究生活を人生に一度は経験したかったこと(当時は、製薬会社から海外留学は稀、大学の先生は1度は必ず留学ができた)③企業の研究は、企業の方針に沿ったターゲット疾患の創薬研究になり、研究者の自由は制限されること(病院で治らない難病の研究がやりたかった。希少疾患の創薬研究を企業が行うことはなかった)④同期入社に他大学の助手を経験した人がいたこと(当時、大学教員から企業研究者の道はあるけど、その逆はほとんどなかった。教員が向いていないことがわかれば、また、どこかの企業に就職すれば良いと思った)。⑤運を運びたければ足を運べ。挑戦せずに人生を悔いるより、挑戦して人生を悔いる方がどれほど幸せか。
決断した後、辞める人間をエーザイの方々が色々と支えてくれた。特に、舘さんは真摯に動いてくれた。熊大に戻った後も甲斐が大切にされるようにと。舘さんは、当時、研究人材の採用担当として、日本中の国公立大学の薬学部などを周っていた。大学院修士2年の5月に、私がエーザイの面接試験を本社で受けた時の面接官でもあった。当時、羽田ー熊本の最終便が6時くらいであった。面接終了後、帰る便に間に合わないことがわかり、本社の正面玄関の外で、さあどうしようかと途方に暮れていた時、後ろから声をかけてきたのが舘さんだった。「おう、甲斐君、どうした?帰れない。それなら、俺の家に泊まれ。その前に銀座に飲みに行くぞ」と。その夜は、座るだけで数万円という店に、その後、電車に揺られて、埼玉県にある舘さんの自宅に。それ以来、30年以上の親友としての関係が続いた。私が教員として戻った後、舘さんは何度も熊本に、そして私の実家の椎葉にも訪れた。私の父と鶴富屋敷の中で酒を酌み交わしたりしていた。舘さんの通夜の時に、送る言葉をご家族に頼まれた。その時、舘さんがカラオケでよく歌っていた歌を下手なフルートで演奏をした。葬儀では、内藤社長が送る言葉を。舘さんにお世話になった人は日本各地にいた。画伯でもある舘さんの話はこちらに掲載。