1992年7月から1994年4月の1年10ヶ月の間、一生の目標の一つであった海外生活が実現した。まだ、インタネットは普及していない時代。博士号を取得後、どこに行こうかと考えていた。インターネットが無い時代は、ラボ情報は論文からとなる。最初は、肺胞II型上皮細胞の研究を盛んにやっているYale大学のRooneyのところを考えて、ほぼ決まっていた。Yale大学への憧れもあった。当時、文部省在外研究員の枠が薬学部に回ってくると言うことで、私に回ってきた。少し欲が出てきた。どうせなら分子生物学の技術を学べるところに行こうかと。呼吸器系の研究者で、遺伝子クローニングをやっていた唯一のラボがサンフランシスコのCarolラボであった。早速、手紙を書き、返信を待っていたところ、Carolラボでポスドクをしていた産業医科大所属のTsuda先生から国際電話を頂いた。7月から後輩(Ohmori先生)が留学することになったので、一緒に同時期にどうですか?ということだった。有難いことにトントン拍子に事が進んだ。当時、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)がどのくらい凄い大学は全く知らなかった。実は、医学系研究のトップを走っていた。日々、行われる公開セミナーでは、さまざまな分野の世界のトップ研究者の最新情報が得られた。本当に贅沢な研究三昧の日々が始まった。
7月の出発の日、成田空港には、企業から研究生として熊本に来ていた石井さんが、わざわざ見送りに来てくれていたことを覚えている。私は、3歳の長男を連れて、家族3人での初めての海外旅行(私も初アメリカ)。最も安いエアラインのチケットを購入した。機内は日本人がかなり少なく、ちょっと異様な雰囲気であった。サンフランシスコ空港に着陸した時の瞬間は、感動を覚えた(互いに戦争していた国という意味も含めて)。最初の1週間は、大学キャンパスの側のゲストハウスを予約し、アパート探しをした。三重大学からCarolラボに来ていたTakeuchi先生に色々とお世話になり、研究テーマ(Lysozymeのpromoter解析)も引き継いだ。留学前に、英会話学校に一生懸命通い、その学校のハイレベルのクラスにいたにも関わらず、現地の英語が聞き取れずにショックを受けた。英会話学校では、いつも同じ先生(オーストラリア、カナダ)と話すので、単に、その方の英語に慣れていただけであった。
その2へ 続く