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2023年3 月18日 (土)

教員13年目から15年目

教員13年目から15年目

平成11年4月から平成12年3月。メンバー(旧姓):4年生に、伊瀬、柴田、須崎、関、松尾、松岡、M1に、今里、坂田、首藤、大日向、久津輪、M2に、宇藤、沖米田、小柳、城野、D3に、永山、久恒、この年の夏に、UCSF時代の教え子とも言えるDr.Jian-Dong, Liから、Los AngelsのHouse Ear Instituteにて独立ラボを構えたが、ポスドクを雇えるグラントもなく、HELPをという連絡を受けた。こちらから学生を給料無しで送る代わりに、今後、RO1などのグラントを獲得したら、うちの博士課程の学生をポスドク待遇で受け入れるという独自の留学システムを構築するという約束をした。そこで第一号として送り込んだ学生がM1の首藤君である。彼は、自治会長などをやり、米国でも笑顔で生きれる海外向きのタイプであり、かつ、本人の意欲も尊重した。しかし、奨学金をもらっていなかったので、急遽、手続きをしてもらった。さらに、両親にも安心してもらうために行動した。急遽、House Ear Instituteの研究環境、住宅環境、治安などの確認のために、ほぼトンボ帰りのLA出張した。ただ学生を送るのではなく、指導教員としての責任を取るための事前調査である。House Ear Instituteは、耳の疾患ではトップの研究所であり、幸いにも、他のラボで、日本からの留学生(浜松医科大耳鼻咽喉科、名倉先生)が活躍しており、首藤君のお世話をお願いできたのが良かった。また、ホームステイ先も見つかり、帰国後、そのような旨の手紙を首藤君の両親に送り、安心して、海外留学を認めてもらえるようにお願いした。この後、Dr.Jian-Dong, Liのラボで、首藤君が修士の約1年半の間に頑張り、JBCやPNASの論文を発表し、LiラボでもNIHのRO1グラントも次々に獲得でき、その後の独自の留学システムが構築できていった。この頃、日本側のラボでもMEF関連のネタで、JBCの論文を出すことができ、また、分子シャペロンの研究においても様々な成果が生まれるようになった。

 

 

平成12年4月から平成13年3月。メンバー(旧姓):4年生に、桑原、下原、原田、野地、海、三上、光野、M1に、伊瀬、柴田、関、松尾、呂、M2に、今里、坂田、首藤、大日向、久津輪、D1に、沖米田、城野、Suico、この年は、アン先生がフィリピンの大学の講師を辞めて、国費留学生として、博士後期課程に入ってきた年である。また、中国からは、呂さんが、中国の製薬企業を辞めて、研究生を経て、私費留学生として、修士課程に入った。また、D1になった城野君を第2号海外派遣として、Liラボに送り込んだ。そして、この年の大きな出来事は、大学の概算要求で、大学院に特化した研究室が二つ設置することが認められ、その人事が内々に行われ、そのうちの一つのラボは、教員ポストが新たに付かないため、内部からの選抜ということで、私に話が来た(とても驚いた。薬理の助教授であることから薬理を二つ作ることになるため)。新しい研究室は、遺伝子機能応用学という講座名で、これからの時代のゲノム創薬を行うようにということであった。幸いにも、私の研究グループは、学部内で分子生物学の技術を駆使した研究を行っていたので、そのような流れにマッチした。そして、その際、新たなポストは取れないから、内部から助教授も決めるようにということで、当時、製剤学の助手として頑張っていた、また、私と同じエーザイ社員でもあった、有馬先生に助教授をお願いした。当時の製剤学では、教授、助教授の先生方が年齢も近いということで、お二人の定年までずっと助手という立場になる可能性が高いため、まず、私の研究室の助教授になって、かつ、海外留学も経験してもらって、さらには、製剤学の研究テーマもこれまで通り継続して進めてもらって、将来の製剤学の教授候補にという意図であった。また、新たな研究室の体制を構築している中で、幸いにも平成13年2月頃に助手も新規に採用できるということにもなり、海外で頑張っていた首藤君に、修士卒になるが助手をお願いした。この時は、Dr. Liも首藤君を自分のラボに残すつもりであったため、私からの急な要請にDr.Liには大きな迷惑をかけたことになった。

 

 

平成13年4月から平成14年3月。メンバー(旧姓):4年生に、内川、森川、山平、古田、長井、野村、山下、M1に、桑原、下原、原田、三上、吉田、M2に、伊瀬、柴田、関、松尾、呂、D1に、今里、大日向、モーシー、D2に、沖米田、城野、Suico、この年が、遺伝子機能応用学分野の元年である。薬理学(薬物活性学)分野所属の学生でありつつ、希望に応じて、遺伝子機能応用学分野にて研究を行うという過渡期の時代である。それゆえに、研究室旅行も一緒に行った。また、当時の学長が学長裁量により、旧 RI施設の改装費を出して頂き、いわゆるプレハブのラボがスタートした年でもある。平屋の研究室であり、我々と同じ新しいラボである山縣、池水研究室と共存していた。この建物は、他の研究棟から離れていたこともあり、研究室の雰囲気は、隔離されたようで自由であった。本当に、よく実験して、よく飲んで、よく騒いだ時期でもある。また、第3号海外派遣者として、今里君をLiラボに送り込んだ。今里君は、修士課程に就職先が決まっていたが、修士論文を提出する時期に、就職を断り、博士後期課程への進学を決めた。また、有馬先生に、LAの南カリフォルニア大学のDr.Okamoto(日系アメリカ人で、私のUCSF時代の仲間)のラボを紹介し、留学したのもこの頃である。日本のラボで、Cancer Res.やMol.Biol.Cellなどの論文が、海外のラボで、JBCなどの論文が出るようになった時期である。さらに、遺伝性アミロイドポリニューロパチー(FAP)の研究がスタートしたのもこの頃である。

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