教授室を整理していたら、昔、日本薬学会から依頼された「活薬のひと」の原稿ができてきました。「活薬のひと」の掲載が始まった、かなり初期の頃に依頼されたものです。読み返してみると、今もなお変わらないなと思いました。
2023年4 月 3日 (月)
2023年4 月 2日 (日)
私が大事にしている格言集(2023.04.01バージョン)
私が大事にし、教え子達に伝えてきた格言集を掲載しました。人生、道に迷った時の命水になれば嬉しいです。
- 独創力とは、淡い模倣の強烈な自己展開をいう
- 人生は、怠惰な自己との闘いである。でも、心や体のストレスを解き放つ武器を持て
- 長生きでなく、中味の濃さに人生の意義がある
- 知らなくてもよいことを知りすぎ、知るべきことを知らなすぎる
- 自分の尺度を捨てると他人の尺度が分かる。他人の尺度を知って自分の尺度を作り直すと、堅実な尺度ができる
- 人がすることは嫌われない程度に行い、しないことを徹底的に行えば個性が育つ
- 失敗はコインの裏側で、成功はその表側だから、何度も投げてみよ。いつか必ず表が
- 俺がやらぬと誰がやる。今やらぬといつやれるの気概を持て
- 上役が悪いから問題が起こる。但し、それを解消させるのは、下役の工夫と努力だ
- 話の長さから、ボケの進行度合が測定できる
- 運を運びたければ、足を運べ
- 人の心は、言葉と態度と行動によって測定できる
- 遊びが下手で味に鈍感なら、目標とする成果も期待できない
- ケチで、楽ばかりしたがる友は避けろ。その社会的評価は最低だから
- 言葉は心の響きです
- 早めに成功の体験を味わえ。それが、次の挑戦への追い風になる
- 涙とともに堅パンを食べたことがなければ、人生の味は分からない
- 私が無駄にした今日という日は、昨日なくなった人が、必死で生きたいと願った一日
- 頭の良さよりも、人柄の良さ
- 苦境や不満の中にこそ、夢が生まれる
- 「~したのに」というから、愚痴が出る
- 自分のことより、まず相手のことを大切に思うと、信頼が生まれ本当の愛が生まれる
- 頭の引き出しを増やすには,多くの読書と多くの経験。心の引き出しを増やすには、多くの親友と多くの失敗
- 言い訳は、自分は守るが、相手の心を手放す
- 逃げるのは簡単。でも、一歩だけ前に進むのも簡単
- 人は死ぬために生まれ、死を背負って生きて行く
- 努力すればできるように生んである
- 想像力は知識の先にある
- 子供の想像力は大人の倍以上である
- 争って得るものは何もない
- ゼロからのスタートは失うものがない
- 成功は問い続けるから生まれる
- 何を考えるかを考えろ
- 心を開いても魂は売らない
- 怠惰とは、疲れる前に休む癖と同じ
- 幸運の女神は準備していない人を決して助けない
- 疑問はあらゆる知恵の鍵穴
- 真っ直ぐな道を歩く人は決して疲れない
- 疲労は最大の枕である
- 満足は最大の富だ
- 穴を一つしか知らないねずみはすぐ捕まる
- 天才とは、1%のひらめきと99%の汗である
- 勉強することは自分の無知を徐々に発見して行くこと
- 歴史を学ぶと、我々は歴史から何も学んでいないことが分かる
- 考えることは、もう一人の自分と話をすること
- 失敗は解決策も連れて来る
- 人生は、他者への貢献で意味が生まれる
- 行動からしかチャンスは生まれない
- 人生における幸せは、片足を棺桶に入れて、自分の人生、後悔なしと言って、もう片足を入れれること
- 人生は自分の手でしか開けない
- 雨霜に打たれてこそ若芽は強く伸びる!
- 人生の転機を見抜く才覚、活かす才覚
- 向上意欲の前に壁はない!
- 自分の使命に燃えて生きる!
- 「実務能力」のない者に成功者なし
- 楽するには汗をかけ!
- 最高の知的素養は一日の仕事から生まれる
- 人生の師•人生の友•人生の書
- 人格は一生通用する唯一の宝だ!
- 人の繋がりこそ、最高の財産
- 迷ったら、ワクワクする方に進む
- 子育ては、苦労すればするほど、親を育てる
- 親は、子供が苦しんだ時のオアシスになる役割だけで十分。子供は河の流れで育つ
- 「〜ねばならない」というから、相手(子)も苦しめ、自分(親)も苦しめる
- 親が生きてきた社会(時代)と、子がこれから生きていく社会(時代)は、全く別物
- 自分の経験をもとに、子育てをしない。押し付けない
- 苦しい時こそ、河の流れに逆らうな。逆らって泳ぐと、苦しく、溺れるだけ
感謝感謝の退職記念講演会
昨日は、早期退職記念講演会と称し、多くの教え子や仲間達が対面及びZOOMを通して集まった。本当に貴重な時間、空間であった。エイプリルフールとしては、最高のイベント。久々に会った教え子の顔がマスクしたままだと、全くわからなかったが、マスクをとってもらってからしっかりと若かりし頃の顔を思い出した。教員人生としての一つの区切りであり、新たなステージへのスタートでもあるこの日を、皆で想いを共有できたことはとても良かった。午後2時からのオープンエアで、現役学生達がポスタープレゼンしながらの、ビールや日本酒でのウェルカムドリンクと椎葉の猪肉のバーベキュー焼き。この間、希望者に、フェルメールの案内(甲斐流の解説付き)。そのまま、ちょっと(ちょっとでない人も)酒を体に注入したまま、午後4時から、記念講演会と称して、約70分の「これからとこれまでの話」の漫談会、最後に、10分間の涙の懐かし写真、面白写真満載のムービー。まるで、結婚式の披露宴の雰囲気のよう。裏話として、当日の午前まで、私のわがままを聞き入れてもらって、ムービーの編集に頑張ってくれた学生のバルキー君に感謝。最初の登場場面などのアイデア(明石家さんまが出演するFunky Monkey Babysの「ありがとう」の真似。なぜ、この曲を選曲したかは、作曲、編曲が熊薬同級生のYANAGIMANだったから。後半の曲は、バルキー君の推薦)は全てバルキー監督による。懇親会は、青柳にて6時半から、卒業した教え子中心で開催(最大70名の会場のため、舞台まで使って、席を作り、高濱先生、そして、二人の親友、私の4名の高齢者は、正面舞台の席に。まるで、結婚式の披露宴。席に限りがあり、教え子以外の参加したい方々には基本的にお断りをした。本当に申し訳なかった)。ホテルで開催すると、時間制限が厳しく、楽しむ時間が少なく、会場費の割には料理も寂しい。だから、せっかく遠くから来る教え子に、熊本の美味しいものを食べさせたいという思いで、青柳の女将と社長にお願いした。なお、参加費が少し高くなるかなと思い、懇親会に参加した教え子達には、オリジナルのKAIーTシャツを引き出物(記念品)としてお渡しした。2次会は、9時から、薬学部の側の恒例の田舎屋(在学生が合流)ほか、それから3次会と。現時点で午前3時過ぎまでという記録の連絡あり。退職記念会は、一般に、「さよなら」「ご苦労様」の会であり、私としては好きではない。集まってくれた全ての世代の仲間達に、「希望と元気と笑顔を与える」会にしたいと徹した。教員として、36年間。本当に教員になって良かった。多くの皆さまに感謝。ありがとうございました。そして、これからも末永く、お付き合いのほどを。(ムービーは、このブログにアップしたら、まずい写真もあるので、連絡していただいた希望者のみに共有します)
早速、yukiちゃんから。とてもかわいいです。
2023年3 月28日 (火)
日本薬学会 イン札幌
26日から28日まで日本薬学会が札幌(北海道大学キャンパス内)で開催された。薬学は、ヘルスサイエンスであり、カバーする専門領域がとても広い。この薬学会に参加すると、他の領域の話も聴けることや通常は会わない先生方と会えることがメリットと言える。今回は、研究室からは、3名の学生が発表した。また、シンポジウム「薬学の未来を創造するアントレプレナー教育」のオーガナイザーとパネラーを務めた。薬学部薬学科1年の梅田さんもプレゼンとパネラーを務めたことがこのシンポジウムの大きな目玉となった。1年生とは思えない、学会発表はもちろん、学会参加も初めてとは思えない落ち着きぶりだった。素晴らしい。会場の参加者が想定以上に多く、終了後に、多くの方々に高評価を頂いた。アントレプレナーマインドセットが薬学教育に好影響をもたらすことがポイントである。
概要:
オーガナイザー
森岡弘志(熊本大院薬)
甲斐広文(熊本大院薬)
井上浄(リバネス)
弘津辰徳(サイディン)
アントレプレナーシップは、起業をするために必要な能力と一般に捉えられている。しかし、その解釈は幅広く、社会課題を解決するため、新たなアプローチで好奇心を持って挑戦し続ける姿勢や能力であるとわれわれは考えている。
薬学は、多様な専門分野を学ぶことができ、卒業時には多分野にわたる知識を持つことになる。従って、薬学人材がアントレプレナーシップを身につけることにより、リーダーとして世界が抱えるあらゆる課題を解決できるポテンシャルを秘めている。
このような背景から、熊本大学薬学部では、2017年から学部1年生を対象に、アントレプレナーシップ育成講座(iHOPE:Innovative Healthcare-Oriented Program for Entrepreneur)を、また、21年から実践編として、大学院生を対象にiHOPE NEXTを開講した。
本シンポジウムでは、これまでの活動報告に加え、履修した学生の変化やアントレプレナーシップの重要性について議論する。
2023年3 月25日 (土)
2023年3 月24日 (金)
2023年3 月22日 (水)
2023年3 月18日 (土)
教員13年目から15年目
平成11年4月から平成12年3月。メンバー(旧姓):4年生に、伊瀬、柴田、須崎、関、松尾、松岡、M1に、今里暁、坂田、首藤、大日向、久津輪、M2に、宇藤、沖米田、小柳、城野、D3に、永山、久恒、この年の夏に、UCSF時代の教え子とも言えるDr.Jian-Dong, Liから、Los AngelsのHouse Ear Instituteにて独立ラボを構えたが、ポスドクを雇えるグラントもなく、HELPをという連絡を受けた。こちらから学生を給料無しで送る代わりに、今後、RO1などのグラントを獲得したら、うちの博士課程の学生をポスドク待遇で受け入れるという独自の留学システムを構築するという約束をした。そこで第一号として送り込んだ学生がM1の首藤君である。彼は、自治会長などをやり、米国でも笑顔で生きれる海外向きのタイプであり、かつ、本人の意欲も尊重した。しかし、奨学金をもらっていなかったので、急遽、手続きをしてもらった。さらに、両親にも安心してもらうために行動した。急遽、House Ear Instituteの研究環境、住宅環境、治安などの確認のために、ほぼトンボ帰りのLA出張した。ただ学生を送るのではなく、指導教員としての責任を取るための事前調査である。House Ear Instituteは、耳の疾患ではトップの研究所であり、幸いにも、他のラボで、日本からの留学生(浜松医科大耳鼻咽喉科、名倉先生)が活躍しており、首藤君のお世話をお願いできたのが良かった。また、ホームステイ先も見つかり、帰国後、そのような旨の手紙を首藤君の両親に送り、安心して、海外留学を認めてもらえるようにお願いした。この後、Dr.Jian-Dong, Liのラボで、首藤君が修士の約1年半の間に頑張り、JBCやPNASの論文を発表し、LiラボでもNIHのRO1グラントも次々に獲得でき、その後の独自の留学システムが構築できていった。この頃、日本側のラボでもMEF関連のネタで、JBCの論文を出すことができ、また、分子シャペロンの研究においても様々な成果が生まれるようになった。
平成12年4月から平成13年3月。メンバー(旧姓):4年生に、桑原、下原、原田、野地、海、三上、光野、M1に、伊瀬、柴田、関、松尾、呂、M2に、今里暁、坂田、首藤、大日向、久津輪、D1に、沖米田、城野、Suico、この年は、アン先生がフィリピンの大学の講師を辞めて、国費留学生として、博士後期課程に入ってきた年である。また、中国からは、呂さんが、中国の製薬企業を辞めて、研究生を経て、私費留学生として、修士課程に入った。また、D1になった城野君を第2号海外派遣として、Liラボに送り込んだ。そして、この年の大きな出来事は、大学の概算要求で、大学院に特化した研究室が二つ設置することが認められ、その人事が内々に行われ、そのうちの一つのラボは、教員ポストが新たに付かないため、内部からの選抜ということで、私に話が来た(とても驚いた。薬理の助教授であることから薬理を二つ作ることになるため)。新しい研究室は、遺伝子機能応用学という講座名で、これからの時代のゲノム創薬を行うようにということであった。幸いにも、私の研究グループは、学部内で分子生物学の技術を駆使した研究を行っていたので、そのような流れにマッチした。そして、その際、新たなポストは取れないから、内部から助教授も決めるようにということで、当時、製剤学の助手として頑張っていた、また、私と同じエーザイ社員でもあった、有馬先生に助教授をお願いした。当時の製剤学では、教授、助教授の先生方が年齢も近いということで、お二人の定年までずっと助手という立場になる可能性が高いため、まず、私の研究室の助教授になって、かつ、海外留学も経験してもらって、さらには、製剤学の研究テーマもこれまで通り継続して進めてもらって、将来の製剤学の教授候補にという意図であった。また、新たな研究室の体制を構築している中で、幸いにも平成13年2月頃に助手も新規に採用できるということにもなり、海外で頑張っていた首藤君に、修士卒になるが助手をお願いした。この時は、Dr. Liも首藤君を自分のラボに残すつもりであったため、私からの急な要請にDr.Liには大きな迷惑をかけたことになった。
平成13年4月から平成14年3月。メンバー(旧姓):4年生に、内川、森川、山平、古田、長井、野村、山下、M1に、桑原、下原、原田、三上、吉田、M2に、伊瀬、柴田、関、松尾、呂、D1に、今里暁、大日向、モーシー、D2に、沖米田、城野、Suico、この年が、遺伝子機能応用学分野の元年である。薬理学(薬物活性学)分野所属の学生でありつつ、希望に応じて、遺伝子機能応用学分野にて研究を行うという過渡期の時代である。それゆえに、研究室旅行も一緒に行った。また、当時の学長が学長裁量により、旧 RI施設の改装費を出して頂き、いわゆるプレハブのラボがスタートした年でもある。平屋の研究室であり、我々と同じ新しいラボである山縣、池水研究室と共存していた。この建物は、他の研究棟から離れていたこともあり、研究室の雰囲気は、隔離されたようで自由であった。本当に、よく実験して、よく飲んで、よく騒いだ時期でもある。また、第3号海外派遣者として、今里暁君をLiラボに送り込んだ。今里暁君は、修士課程に就職先が決まっていたが、修士論文を提出する時期に、就職を断り、博士後期課程への進学を決めた。また、有馬先生に、LAの南カリフォルニア大学のDr.Okamoto(日系アメリカ人で、私のUCSF時代の仲間)のラボを紹介し、留学したのもこの頃である。日本のラボで、Cancer Res.やMol.Biol.Cellなどの論文が、海外のラボで、JBCなどの論文が出るようになった時期である。さらに、遺伝性アミロイドポリニューロパチー(FAP)の研究がスタートしたのもこの頃である。
2023年3 月17日 (金)
教員10年目から12年目
平成8年4月から平成9年3月。メンバー(旧姓):4年生に、伊藤、今里、岩切、小原、中田、矢野、M1に、栗田、副田、千原、M2に、寺迫、永山、久恒、D1に、Tai、D2に、木戸、福島、分子生物学的なアプローチが佳境に入る。学生が朝飯を抜くこともあり、朝ゼミの参加を促す意味もあり、私が朝から作った豚汁やおにぎりを提供しながら、朝から頑張る習慣を定着させようとした。高濱先生が衛生の教授選に出られた(同級生同士の教授選になるにも関わらず)。その際、私にポストをということを言われたことを思い出す。それがなかったら、今の私やラボ、人のつながりはなかったと確信している。このまま助教のままではダメで、どこかに異動しなければと思い始めていた頃。高濱先生に心より感謝。今回の私の退職もこのことがあったのも動機の一つ。
平成9年4月から平成10年3月。メンバー(旧姓):4年生に、宇藤、沖米田、國生、小柳、城野、中村支、堀川、M1に、今里、矢野、M2に、栗田、副田、千原、D1に、永山、久恒、D2に、Tai、D3に、木戸、福島、朝ゼミが学生主導になってきた時期。学生達で7時半に遅刻したら罰を作っていた。ETSファミリーの研究がうまくいき出した頃。さまざまなテーマで土台ができてきた頃。平成9年6月に私を助教授として推薦した当時の教授会の先生方に心より感謝。そして、平成9年11月から礒濱先生がテキサス大学へ留学(その後、平成10年11月からイエール大学へ)、初の学部講義だけでなく、一人での薬理実習のお世話は大変だった。多くの学生に支えられた。
平成10年4月から平成11年3月。メンバー(旧姓):4年生に、今里暁、坂井、坂田、佐竹、首藤、鶴屋、皆内、M1に、宇藤、沖米田、小柳、城野、M2に、今里、矢野、D2に、永山、久恒、D3に、Tai、賑やかで、激しい時期に突入。分子生物学の技術を活用した論文も生まれてきた時期。この年に、首藤先生が4年生として入ってきた。
2023年3 月13日 (月)
アトランタ ジョージア州立大学バイオメディカル研究所
30年の付き合いというか、共同研究を行い、多くの博士課程の学生の留学を受けてくれたDr. Jian-Dong Liに会うためにアトランタに来た。これまでの御礼とこれからの連携の話をしに。久しぶりの海外出張は、コロナ禍で、入国時のシステムが少し変わっていたため、少し戸惑いつつも無事に到着。空港まで、現地にスタッフとして滞在の教え子のマツケンとリサさんが迎えに来て、そのままホテルへ。翌日は、午後からラボ見学とDr. Liとの情報交換。ラボには、かなり前に設置した熊大との共同研究を示すプレートが今もなお掲げられている。Dr. Liとは3時間以上にわたり色々と話をした。その後、本山先生も一緒にディナー。初日は、重要で、とても有意義な1日であった。こちらの朝のニュースは、スタートアップ企業を支援してきたシリコンバレーの地方銀行が破綻した話ばかり。外からは良く見えている米国のベンチャー事情も実はシンプルではない。また同様に、大学運営も色々と大変である。10年ぶりにGSUの学長やプロボストが代わるという。そのため方針が変わり、新たなテニュアポストが無くなるどころか、現在のテニュアの人もテニュアで無くなるという。着任時の採用条件と違うのではないかは関係ないらしい。
時は常に変わりゆくもの。。受け入れつつ、サバイバルしていく。諸行無常の響きあり。今のあたり前は、未来のあたり前ではないことは、コロナで変わった社会で実感したところ。